「これは1945年ではない」――国連総会で見えた、変わる世界と変われない世界

2026年の国連総会を追っていて、一つ、どうしても頭に残った言葉がありました。

「これは1945年ではない」

第81回国連総会のハリルール・ラーマン議長が、今会期の開幕にあたって語った言葉です。

もちろん、2026年なのですから、文字どおりに読めば当たり前です。

ところが各国の演説を読み、実際に起きていることと重ねていくと、この言葉が妙に重くなってきます。

国連がつくられたのは1945年。それから80年以上の間に、植民地だった国々は独立し、中国やインドは大国となり、世界経済の重心も大きく動きました。

世界は変わった。でも、世界を動かす「席順」は、それほど変わっていない。

今回の国連総会を見ていて、私が一番引っかかったのはそこでした。

世界は変わった。でも「席順」は変わらない

グテーレス国連事務総長も、今回の演説で似た問題を指摘しています。

国家間の力は移動し、国家から巨大企業や個人へも力が移っている。AIによって、人間と機械の関係まで変わろうとしている。

ところが世界を統治する制度には、いまだに「過ぎ去った時代の力関係」が残っている、と。

その象徴が、国連安全保障理事会です。

拒否権を持つ常任理事国は、米国、英国、フランス、中国、ロシア。第二次世界大戦後につくられたこの枠組みは、基本的にいまも変わっていません。

そして現在、その一角であるロシアがウクライナへの全面侵攻を続けています。それでもロシアは常任理事国であり、自国が関係する問題でも拒否権を持つ。

国際平和と安全を守るために特別な権限を与えられた国が、戦争の当事国になっても、その権限を持ち続ける。

では、1945年につくられたこの「特別な席」を、いつまでそのままにするのでしょう。

「道徳的な臆病者」

中東をめぐっても、「力」と「ルール」の関係がかなり露骨に現れました。

イスラエルのネタニヤフ首相が国連総会で演説すると、数十人の各国代表が議場から退席しました。

ネタニヤフ氏は、その代表たちを「moral cowards」――「道徳的な臆病者」と呼びました。

かなり強い言葉です。

ところが2日後、この言葉が別の意味を持って返ってきます。

2日後、小さな国がその言葉を返した

同じ国連総会の演壇に立ったアイスランドのソルゲルズル・カトリン・グンナルスドッティル外相が、「moral cowards」という言葉を拾いました。

彼女が「道徳的な臆病者」と呼んだのは、公正で永続的な和平のための交渉を拒む指導者であり、人道支援を必要とする人々へのアクセスを妨げ、国際法を繰り返し軽視する指導者でした。

同じ言葉を、そのまま返したわけです。

私はこの場面がかなり印象に残り、Xにも投稿しました。

ただ、演説をさらに読んでいくと、私が気になったのはむしろその先でした。

彼女は、小さな国も大国と同じ保護、同じ権利、そして同じように声を持つべきだと訴えています。

アイスランドは軍事大国ではありません。大国と同じ軍事力を持つこともできない。

だからこそ、国際法が必要になる。

力の小さな国が、「私たちにも同じ権利がある」と言うための力でもある。

大きな軍事力を持つ国の首相が演説する。その2日後、軍事力では比較にならない小国の外相が同じ演壇に立ち、その言葉を返す。

これもまた、国連が持っている力なのだと思います。

アイスランドだけではなかった

ほかの国の演説も見ていくと、似たような声を上げていたのはアイスランドだけではありませんでした。

バハマのフィリップ・デービス首相は、国連創設時の約束を振り返り、「強者も弱者と同じ法に拘束されるべきだ」と訴えました。

そして、さらに踏み込みます。

大国はルールがなくなっても生き残れる。しかし、小国はそうではない。小国にとって、ルールに基づく世界は「盾」なのだ、と。

だからこそ、ルールが弱い国にだけ適用される国際秩序は「秩序」ではない。それは「ヒエラルキー」だと語っています。

でも、この演説で私がもう一つ気になったのは、その少し前でした。

デービス首相は、必要なのは単なる「政治的意思」ではなく、政治そのものの変化だとして、こう問いかけています。

誰がルールを書くのか。誰の苦しみが重視されるのか。誰が決め、誰が支払うのか。

これは、単に「国際法を守りましょう」という話ではありません。

そもそも、そのルールをつくる側に誰がいるのか。

そこまで踏み込んでいる。

そして安保理については、さらに直接的です。

安全保障理事会は「81年前に終わった戦争の勝者」によって設計された。世界は変わったのに、安保理は変わっていない。193か国の平和に対して、拒否権を持つのはいまも5か国だと指摘しています。

セーシェルのパトリック・エルミニー大統領も、同じ問題を別の角度から語りました。

国際法は「例外も、偏りも、二重基準もなく」、すべての国に等しく適用されなければならない。

しかし、その原則を支えるはずの安保理の構成は、21世紀の地政学的現実ではなく「過ぎ去った時代」を反映している。そのため、改革はもはや政治的な都合ではなく、「制度の存続と正統性」の問題なのだと述べています。

そして、独立から50年を迎えた小さな島国として、こう語りました。

「国の大きさが、主権を決めるわけではない」

小さな島国であっても、この国連総会では対等な参加者として席に座る。

ここまで重なると、単なる安保理改革論ではないように思えてきます。

国連総会議長は「これは1945年ではない」と言う。

バハマは「世界は変わった。安保理は変わっていない」と言う。

セーシェルは、安保理が「過ぎ去った時代」を反映していると言う。

1945年につくられた世界の「席順」そのものが、2026年の世界から問い直されている。

私には、そう見えました。

戦後秩序をつくった米国は、いま何をしているのか

では、その戦後秩序をつくる中心にいた米国はどうでしょう。

トランプ大統領は今回の演説で、国連には大きな可能性があると語る一方、「選挙で選ばれていない官僚」を批判し、ICCについては加盟国に離脱まで呼びかけました。

米国はWHOから離脱し、UNESCOからの離脱も決めています。対外援助も大きく削減しました。

これだけを見ると、米国が世界から引いているようにも見えます。

ところが、イラン、ウクライナ、西半球、安全保障では、依然として強く関与する。

つまり、世界から撤退しているというより、どの国際制度を使い、どの制度から距離を取るのかを選んでいると見たほうが、実際の動きには近い。

そして少し皮肉なのは、その距離を取り始めている国際制度をつくる中心にいたのも、米国だったということです。

ところが、中国を見ると少し景色が変わる

一方、中国です。

今回、習近平国家主席は一般討論には出席せず、韓正国家副主席が演説しました。

そこで強調されたのは、開発、多国間協力、主権、そして国連を中心とする国際体制でした。

ここで米国と並べて見てみると、少し不思議な構図が浮かびます。

米国はWHOから離れ、UNESCOからも離れる。

ところが中国は、少なくとも国連から離れようとはしていません。

分担金を負担し、PKOにも資金を出し、国連という制度の正式な手続きの中で、自国の立場を主張しています。

私は、ここが気になりました。

もちろん、だから中国が「国際ルールを守る国だ」という話にはなりません。

台湾への軍事的圧力、南シナ海、人権問題など、別に検証しなければならない問題はいくつもあります。

ただ、それと同時に、「中国は既存の国際秩序を壊そうとしている」という一つの説明だけで、現在の中国の動きを捉えることができるのかという疑問も出てきます。

少なくとも国連について見ると、中国は制度の外側から離れていくのではなく、その内側にとどまり、そこで認められている手続きを使いながら、自国の発言力を強めようとしているようにも見える。

これは、かなり重要な違いではないでしょうか。

では、中国は実際に国連でどのくらいの義務を負っているのか。そして、その負担は本当に「力」に変わっているのか。

ここは印象ではなく、数字を見てみる必要がありそうです。

これは、中国だけの話ではない

この問題を中国だけの話にしてしまうと、もっと大きな変化を見落とします。

1945年以降、多くの植民地が独立しました。インドは巨大な人口と経済を持つ国になり、ブラジルも国際社会で存在感を増しています。

アフリカには54か国があります。

それでも、アフリカには安保理常任理事国が一つもありません。

今回、グローバルサウスの国々から出ていたのも、単に援助を求める声ではありませんでした。

債務、気候変動、開発資金。そして、その政策を決める国際機関の中で、自分たちの声をもっと反映させてほしいという問題です。

そう考えると、いま国際社会で起きている争いは、「誰がルールを守るのか」だけではないのかもしれません。

その一つ奥に、

「誰がルールをつくる側に座れるのか」

という問題がある。

1945年には力を持っていなかった国が大きくなったとき、その国にはどこまで発言権が認められるのか。

そして、すでに席に座っている国々は、本当にその席を分け合えるのか。

私は、こちらのほうがずっと大きな問題ではないかと思っています。

そして、この問いは日本にも返ってくる

興味深いことに、日本の演説も同じ場所に行き着いています。

高市首相は現在の安保理について、「1945年当時の国際情勢を反映したもの」だと明言し、現代の国際社会を真に反映した構造へ変革することが急務だと訴えました。

国連総会議長は「これは1945年ではない」と言い、バハマは「世界は変わった。安保理は変わっていない」と言う。セーシェルは「過ぎ去った時代」を反映していると言い、日本も「1945年当時」の構造を変える必要があると言う。

国の大きさも立場も違うのに、見ている問題はかなり重なっています。

そして高市首相は、ロシアによるウクライナ侵略についても、かなり踏み込んでいます。

国際社会の平和と安全に特別な責任を持つはずの安保理常任理事国が他国を侵略し、自国の行為に関する決議に拒否権を行使する。そのような状況では、安保理は国際社会の平和のために機能していない、と。

同時に、日本がICJ(国際司法裁判所)、ICC(国際刑事裁判所)、ITLOS(国際海洋法裁判所)などの国際裁判所を一貫して支持してきたことにも言及しています。

ここまで読むと、日本が掲げている原則はかなり明確です。

力ではなく、法と制度によって国際秩序を支える。

だからこそ、一つ気になることがあります。

ロシアが国際法を破れば批判する。中国にも法の支配を求める。

では、同盟国である米国がICCのような国際制度と衝突したときはどうするのでしょう。

今回、高市首相はICCへの日本の支持を明言しました。一方、この演説では、米国によるICCへの制裁そのものへの直接的な言及はありません。

「法の支配」を原則として掲げるなら、その物差しは相手によって変わらないはずです。

これは日本にとっても、かなり難しい問いだと思います。

もう一度、「これは1945年ではない」

今回の国連総会を追い始めたとき、最初は世界がずいぶんバラバラになったように見えました。

米国、中国、ロシア、欧州、グローバルサウス。それぞれが自分の方向へ動いている。

でも、各国の演説と行動を一つずつ見ていくと、少し違って見えてきます。

世界の形そのものが変わったのに、それを動かす仕組みが十分に変わっていない。

その摩擦が、いまあちこちから噴き出しているのではないでしょうか。

だから私は、これを単純に「米国が衰退し、その空白を中国が埋める」という話にしてしまうのも違うと思っています。

問題は、もっと面倒です。

大国に特別な力を与えなければ、国際制度は動かない。

しかし、大国に特別な力を与えれば、その大国を同じルールで縛ることが難しくなる。

そして、小さな国ほど、そのルールを必要としている。

バハマのデービス首相が言うように、大国はルールが崩れても生き残れるかもしれない。しかし、小国にとって、ルールに基づく世界は「盾」です。

アイスランドの外相が、イスラエル首相と同じ演壇に立って、その言葉を返した。

バハマも、セーシェルも声を上げた。

軍事力だけで世界が決まるのであれば、あの演壇には意味がありません。

でも、小さな国も大国も、同じ場所に立って話す。

だから私は、国連を簡単に「もう役に立たない」と切り捨てる気にもなれません。

必要なのに、仕組みが古い。

むしろ、こちらのほうが厄介なのかもしれません。

すでに席に座っている国は、新しく力を持った国にも席を渡せるのか。

新しく力を持った国は、発言権だけではなく、それに伴う義務も引き受けるのか。

そして何より、大国にも小国にも、本当に同じルールを適用できるのか。

「これは1945年ではない」

最初に見たときは、当たり前の言葉だと思いました。

でも、今回の国連総会を追っているうちに、結局この言葉が一番残りました。

世界のほうは、とっくに1945年ではなくなっている。

どうも、世界を動かす仕組みのほうが、まだそこに追いついていないように見えるのです。

さらに深掘りしたい方へ|今回はサブスク補遺を2本用意しました

この記事を書き終えたあとにも、いくつか頭に残ったことがありました。

その一つが、中国です。

米国が一部の国際機関から距離を取る一方で、中国は国連から離れようとはしていない。むしろ分担金を払い、PKOの費用を負担し、国連の中に基金をつくり、中国出身者が国際機関のトップに選ばれる例もあります。

では、中国は国連の中で、本当に力を持つようになったのでしょうか。

サブスク補遺①「中国は国連の中で、本当に力を持つようになったのか」では、分担金、PKO、基金、人事、そして次期事務総長選びまで追いながら、「中国の影響力」と呼ばれているものを、実際の数字と制度から見ていきます。


ところが、中国の分担金を調べている途中で、別の数字が気になりました。

日本です。

日本も国連をかなり大きな金額で支えている。

それなのに、なぜ日本は、国連でそれほど大きな存在感を持っているようには見えないのでしょう。

日本は、国連で「払い損」になっていないのか。

サブスク補遺②「日本は国連で『払い損』なのか」では、日本の分担金を他の主要国と比較しながら、国連機関の人事、安保理改革、そして日本が国際社会への負担をどこまで「制度の中の力」に変えられているのかを追いました。


同じ国連でも、中国側から見るのと、日本側から見るのとでは、まったく違うものが見えてきます。

お金を出すこと。人を送り出すこと。ルールをつくること。そして、最後の決定権を持つこと。

これは、全部同じではありません。

「これは1945年ではない」。
では、変わった世界の中で、誰が制度を支え、誰が制度の中で力を持ち、そして誰が最後の扉の鍵を持っているのか。
本記事で残った二つの疑問を、2本のサブスク補遺でさらに追いました。

参考資料

この記事の執筆にあたり、以下の演説・公的資料・報道を参照しました。

Mariko Kabashima
Mariko Kabashima
編集長・国際メディア分析者(海外ニュース翻訳情報局)

海外ニュースを多言語で読み比べ、「同じニュースが、言語や読者層によってどう書き換わるのか」 を分析しています。

日本の報道だけでは見えにくい 国際政治・情報戦・背景文脈 を、静かで冷静な筆致で読み解きます。

Calm insight from Tokyo.

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※本記事は、国内外の公開情報・制度分析・国際比較に基づく筆者の見解(Opinion)を含みます。
※This article contains analysis and opinions based on publicly available domestic and international sources.

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※本記事は、国内外の公開情報・制度分析・国際比較に基づく筆者の見解(Opinion)を含みます。
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