「デモなんかして、何になるの?」
「暇なんだね」
「意識高い系」
「怖い」
「迷惑」
「痛い」
日本では、デモに参加する人に対して、こんな冷ややかな言葉が向けられることがあります。
でも、私はこれ、ずっと不思議なんですよね。
デモは、本来、民主主義の外側にある行為ではありません。
むしろ、その内側にあります。
選挙で一票を投じる。
政治家に意見を送る。
署名する。
集会を開く。
そして、街頭で声を上げる。
どれも、市民が政治に意思を示すための方法です。
これは「デモを好意的に見るかどうか」という話でもありません。
国連自由権規約委員会は、平和的集会の権利を、民主主義、人権、法の支配、多元主義に基づく「参加型統治」の基礎そのものと位置づけています。
考えてみれば当たり前です。
民主主義は、選挙の日だけ存在するものではありません。
選挙と選挙の間にも、政府は法律を作る。
税金の使い道を決める。
社会保障を変える。
外交や安全保障の方針を決める。
私たちの生活にかかわる決定は、毎日のように行われています。
そのとき市民には、
「それには反対だ」
「この政策を変えてほしい」
「私たちの声を聞いてほしい」
と意思を示す方法が必要です。
その一つがデモです。
もちろん、すべてのデモの主張が正しいわけではありません。
その主張に反対する自由もある。
うるさい、迷惑だと思うことだってあるでしょう。
でも、
「その主張には反対だ」と、
「デモなんかする人はおかしい」は、まったく別の話です。
ところが日本では、ときどき後者が先に来る。
何を訴えているのかを見る前に、
「デモをするような人」
というだけで距離を置く。
怖い。
過激。
迷惑。
痛い。
ダサい。
民主主義に必要な政治参加の一つが、なぜ「普通の人はやらないこと」になったのでしょうか。
今回は、その「空気」がどこから来たのかを調べてみました。
「日本人は政治に無関心だから」では説明できない
日本でデモが少ない理由について、
「日本人は政治に無関心だから」
「和を重んじる国民だから」
と説明されることがあります。
でも、それだけでは説明しにくい研究があります。
日本と韓国で、デモ参加者に対する社会的評価を比較した研究では、日本ではデモ参加者に対する「社会的回避」が確認されました。
しかも、その背景には、
「この人は人間関係の調和を脅かしそうだ」
という認識が関係していました。
興味深いのは、同じ研究の韓国では、同じような回避が確認されなかったことです。
同じ東アジアです。
これだけでも、
「東アジアは集団の調和を大切にする文化だから」
では説明がつきません。
日本には、日本の歴史と社会の中で形成されてきた何かがあるのではないでしょうか。
参加経験2.9%。「怖い・過激」は52.5%
では実際、日本ではデモはどんな目で見られているのでしょうか。
かなり興味深い数字があります。
日本労働組合総連合会(連合)が2021年に行った「社会運動に関する意識調査」では、デモ行進や街頭宣伝行動などを含む「デモンストレーション型」の活動について、
「恐い・過激など印象が悪い」――52.5%。
「主張の押し付けで周りの迷惑」――41.7%。
さらに、このタイプの社会運動に参加した経験がある人は、わずか2.9%でした。
もちろん、この調査は「デモはダサいですか」と聞いたものではありません。
デモ行進だけでなく街頭宣伝行動なども含まれているので、「日本人の52.5%がデモを怖がっている」とまで言うこともできません。
それでも、この数字の差には引っかかります。
参加経験は2.9%。
「怖い・過激」という印象は52.5%。
多くの人にとってデモは、自分で参加して知っているものというより、
外から見て「怖い」「迷惑」と評価するものになっている。
では、そのイメージは、いったいどこから来たのでしょうか。
60年安保、学生運動、そして過激派事件
日本のデモの歴史を考えるとき、避けて通れないのが1960年の安保闘争です。
国会周辺を大規模なデモ隊が取り囲み、警官隊との激しい衝突が起き、東京大学の学生だった樺美智子さんが亡くなりました。
その後、1960年代後半から70年代にかけて学生運動は激化します。
大学占拠。
機動隊との衝突。
内ゲバ。
さらに連合赤軍事件をはじめ、極左組織による凄惨な事件やテロ。
こうした出来事は、日本社会に強烈な記憶を残しました。
だから、
「学生運動が暴力化した。それで日本人はデモを嫌うようになった」
という説明は、一見わかりやすい。
でも、調べてみると、それほど単純でもありません。
過去の社会運動への評価と現在の政治参加との関係を分析した日本の研究では、1960年安保闘争への否定的評価と政治参加との間には関連が見られました。
ところが、全共闘への評価では同じ関係は確認されませんでした。
研究自体も、単純な因果関係を示したものではありません。
つまり、
「全共闘が暴れた。それで日本人はデモ嫌いになった」
と一本の線を引いて終わることはできないのです。
もう一つの「怖い街頭政治」――右翼街宣車
そして、日本で「街頭で政治的な主張をする人」のイメージを考えるなら、もう一つ外せない存在があります。
右翼の街宣車です。
黒塗りの車。
大音量の軍歌。
拡声器から響く政治的な主張。
「街頭で政治的なことを大声で訴える人」と聞いて、この光景を思い浮かべる人は少なくないのではないでしょうか。
これは単なる印象論とも言い切れません。
公安調査庁の右翼団体に関する資料では、大型街宣車が利用されてきた理由として、少人数でも広い範囲に主張できることとともに、その独特な外観が与える「威圧感」が挙げられています。
また、警察庁の警察白書にも、大音量による街頭宣伝、騒音や交通への影響、さらに一部の右翼団体による恐喝や威力業務妨害などの違法行為が記録されています。
ここで、私は一つ気になります。
日本人の「デモは怖い」というイメージを作ったのは、本当に60年代、70年代の学生運動や過激派事件だけなのでしょうか。
その後の街頭でも、
政治的主張+大音量+威圧感
という光景は、右翼街宣車によって繰り返し可視化されてきました。
もちろん、
右翼街宣車が日本人をデモ嫌いにした、と因果関係まで断定することはできません。
それを証明する資料は、今回確認できませんでした。
そもそも、平和的なデモと、威圧や違法行為を伴う街宣活動は同じものではありません。
でも、受け取る側からすれば、
「街頭で政治的なことを大声で訴える人」
という大きなくくりの中で、イメージが重なっていった可能性はあります。
左には、学生運動や過激派の記憶。
右には、右翼街宣車の威圧的なイメージ。
そして左右の違いを超えて、
「街頭で政治を訴える人=普通の人ではない」
という感覚だけが残っていったのだとしたら。
日本で失われていったのは、単なる「デモへの好感」ではなく、
普通の市民が、普通に街頭で政治的意思を示すというイメージそのものだったのかもしれません。
学校で、私たちはどんな「民主主義」を習ったのか
もう一つ、私は学校教育も気になります。
学校では、民主主義について教わります。
みんなで話し合いましょう。
多数決で決めましょう。
少数意見も大切にしましょう。
生徒会で意見を出しましょう。
もちろん、どれも大切です。
でも、考えてみると、そこで教えられる民主主義は、かなり「生徒同士」の話に偏っていなかったでしょうか。
先生の決定がおかしいと思ったとき、異議を唱える。
校則がおかしいと思ったとき、変えてほしいと要求する。
学校という組織の決定そのものに、「なぜですか」と問い返す。
これも、本来は民主主義を学ぶ経験のはずです。
1969年、文部省は高校生の政治活動に関する通知を出し、学校教育への支障などを理由に、高校生の政治活動に一定の制約が必要だという考え方を示しました。
もちろん、これが「若者にデモを嫌わせるための政策だった」と立証する資料は、今回確認できませんでした。
一方、現在の文部科学省の『生徒指導提要』では、児童生徒が自由に意見を表明する権利にも触れています。
つまり、制度上、
「先生に従順であることが民主主義教育である」
と教えているわけではありません。
だからこそ、私は別のところが気になります。
学校では、先生は教える人です。
ルールを運用する人でもある。
そして、成績や内申など、自分を評価する側でもある。
自分を評価する権限を持つ相手に、「それはおかしい」と言うことを、子どもたちはどれだけ安心して経験できるのでしょうか。
もちろん、「先生に反抗したら内申を下げる」という制度になっているわけではありません。
そこは分けて考える必要があります。
でも、子どもの側からすれば、
従う。
波風を立てない。
先生と揉めない。
それと、
権限を持つ人に「なぜですか」「それはおかしくないですか」と問い返す。
どちらが安全だと感じるでしょう。
私は、ここに日本の民主主義教育を考えるうえでの一つの問いがあると思います。
多数決のやり方を知っていることと、民主主義を身につけることは同じではありません。
民主主義には、もう一つ重要なことがあります。
権限を持つ側に対して、「おかしい」と言えることです。
少数でも意見を言える。
決められたルールそのものを疑える。
必要なら、そのルールを変えようとする。
そして、異議を唱えたこと自体で不利益を受けない。
そこまで経験して、初めて民主主義を「知識」ではなく「習慣」として身につけるのではないでしょうか。
学校では、
「みんなで話し合いましょう」
と教わる。
社会に出れば、
「政治の話はしないほうがいい」
「波風を立てるな」
「迷惑をかけるな」
「デモなんかして何になる」
と言われる。
これでは、ずいぶん不思議です。
民主主義の仕組みは教える。
でも、権力に異議を唱える練習は、どれだけしてきたのでしょうか。
デモを「普通の市民がすること」と感じられるかどうか。
その感覚は、政治の授業だけで作られるものではありません。
自分より権限を持つ人に、「それはおかしい」と言ってもいい。
その経験を、子どもの頃から積めるかどうか。
私は、そこにも「声を上げる人は面倒」という感覚につながるヒントがあるように思います。
海外なら、デモは歓迎されるのか
では海外はどうなのでしょう。
「日本だけがおかしい。海外ではみんなデモを民主主義として歓迎している」
という話でもありません。
英国でも、道路封鎖など日常生活に大きな影響を与える抗議には強い反発がありますし、近年は抗議活動への法規制そのものが強化されています。
米国でも、Black Lives Matterなどの抗議活動をめぐって社会の評価は大きく分かれてきました。
台湾のひまわり学生運動も、社会全体が一枚岩で支持したわけではありません。
フランスでも、すべてのデモが歓迎されているわけではない。
つまり、
海外=デモが好き。
日本=デモが嫌い。
そんな単純な話ではありません。
ただ、調べていて一つ面白いことに気づきました。
海外でも「迷惑なデモ」は嫌われる。
それでも、法律の世界では、
「迷惑だから権利ではない」
とは考えていないのです。
法律のほうが、私たちの感覚より現実的だった
国連自由権規約委員会の「平和的集会の権利に関する一般的意見37」を読んでいて、私はここで引っかかりました。
平和的な集会は、その規模や性質によって、
車の通行を妨げることがある。
歩行者の移動を妨げることがある。
経済活動にも影響を与えることがある。
国連は、最初からそう認めています。
そして重要なのは、その次です。
そうした混乱が生じたというだけで、平和的集会としての保護がなくなるわけではない。
さらに国連は、平和的集会は公共空間の正当な利用であり、その性質上、日常生活に一定程度の混乱を伴うことがあるため、それが過度な負担にならない限り、社会はある程度それを受け入れる必要がある、という考え方を示しています。
ここ、面白くないですか。
私たちは、
「人に迷惑をかけない範囲でデモをしてください」
と、なんとなく思っている。
ところが国際人権法は、
デモをすれば、ある程度社会が乱れることはあるでしょう。
というところから考えている。
しかも、これは「海外だから」で終わりません。
日本でも、1975年の徳島市公安条例事件で、最高裁は集団行進について、道路交通の秩序にある程度の支障をもたらすことは避け難いという前提に立って判断しています。
つまり、
日本の法律も、「道路交通に一切迷惑をかけないデモ」だけを想定しているわけではない。
これは、私が調べる前に持っていたイメージとは少し違いました。
「迷惑だからデモをするな」って、ちょっとおかしくないですか
そもそもデモは、ある程度、社会の日常に割って入るためにやるものです。
道路を歩く。
人が集まる。
声を上げる。
プラカードを掲げる。
ストライキなら仕事を止める。
もちろん、暴力や破壊行為まで許されるという話ではありません。
でも、
誰にも迷惑をかけず、誰の目にも留まらず、社会を一ミリも動かさず、権力にも気づかれない場所で静かに抗議してください。
それ、何のためのデモなんでしょう。
世界でも、
「デモなら何をしてもいい」
とは考えられていません。
米国では、政府が抗議の内容そのものを理由に規制することには厳しい制約がありますが、時間・場所・方法について一定の規制は認められています。
英国では近年、道路封鎖など大きな混乱を伴う抗議への規制が強化され、どこまで制限してよいのかが大きな争点になっています。
欧州でも、一定の混乱は民主主義社会が受け入れるべきだという考え方と、重大な道路封鎖などは制限できるという考え方が併存しています。
つまり、争われているのは、
「迷惑か、迷惑ではないか」
だけではない。
どこまでの「迷惑」を、民主主義のために社会が引き受けるのか。
そこなんです。
考えてみれば、デモは「迷惑」を完全にゼロにした瞬間、かなり力を失います。
誰にも見えない。
誰にも聞こえない。
交通にも影響しない。
経済活動にも影響しない。
政治家にも届かない。
それなら権力の側は、
「どうぞ、好きなだけ抗議してください」
と言えるでしょう。
何も困らないからです。
だから私は、
「デモは迷惑だから嫌い」
という言葉を聞くと、少し立ち止まりたくなります。
ある程度迷惑に感じるから、意味があるんじゃないですか。
「ここに、これだけの人間が反対している」
という事実を、無視できない形で社会に見せる。
それもデモの役割の一つです。
「日常を乱すからダメ」
「交通の邪魔になるからダメ」
「うるさいからダメ」
を突き詰めていけば、
結局、
「誰にも気づかれないところでやってください」
になります。
それでは、権力にとってこんなにありがたい抗議はありません。
好きなだけ抗議してください。
ただし、政治には何の影響も与えない場所で。
――そんなものを「民主主義」と呼んでいいのでしょうか。
「政府が作った」とまでは言えない
私は最初、
日本の「デモはダサい」という感覚は、政府によって作られたものではないか。
という疑問を持ちました。
でも、調べてみると、ここは慎重であるべきだと思いました。
1969年の文部省通知のように、政治活動を制約する政策は実際にありました。
警察によるデモの警備や規制も存在します。
しかし、
政府が意図的に「デモを恥ずかしいものにしよう」と国民を誘導した、と立証できる資料は、今回確認できませんでした。
だから私は、「政府が作った」とは書きません。
むしろ、もっと複雑なのだと思います。
戦後の激しい政治運動。
学生運動の暴力化。
過激派による事件。
右翼街宣車が残した威圧的な街頭政治のイメージ。
政治活動を学校から遠ざけた政策。
権限を持つ側に異議を唱える経験の乏しさ。
「人に迷惑をかけない」
「波風を立てない」
「空気を乱さない」
という社会的な規範。
いくつものものが長い時間をかけて重なり、
いつの間にか、
「権力に異議を唱える人」より、「黙っている人」のほうが普通だという感覚が形成されていった。
そう考えたほうが、実態には近いのではないでしょうか。
誰が作ったかと、誰に都合がいいかは別の話
そして、ここは分けて考える必要があります。
誰かが意図的に作った空気ではなかったとしても、
その空気が誰にとって都合がいいのかは、別の問題です。
市民が政策に不満を持っても、街頭には出ない。
増税されても出ない。
社会保障を削られても出ない。
権利を制限されても出ない。
そして、誰かが声を上げれば、権力が抑え込むより先に、周囲の人たちが、
「迷惑」
「痛い」
「怖い」
「意識高い」
と冷笑する。
そうなれば、市民が集団で政治に意思を示す機会は減っていきます。
権力が直接、
「黙れ」
と言わなくてもいい。
市民同士が、声を上げることのハードルを上げてしまうからです。
私は、「政府が国民を洗脳した」という単純な話より、こちらのほうがずっと怖いと思います。
デモをする必要がない社会と、デモをしにくい社会は違う
民主主義は、数年に一度、投票箱に一票を入れて終わる制度ではありません。
選挙と選挙の間にも、政治は続きます。
だから、市民がその途中で意思を示す方法が必要になる。
デモもその一つです。
もちろん、デモをしなくてもいい。
一生デモに参加しない人がいてもいい。
それも自由です。
でも、
「デモをする必要を感じないから、しない」のと、
「デモなんかしたら変な人だと思われるから、できない」のは、まったく違います。
前者は選択です。
後者は萎縮です。
今日、街頭で声を上げている人の主張には、自分はまったく賛成できないかもしれない。
それでいいんです。
反対していい。
批判していい。
自分たちも街頭に出て、反対の意思を示したっていい。
それも民主主義です。
でも明日、
「これはおかしい」
「これだけは変えてほしい」
と思うのは、自分かもしれません。
そのとき、
声を上げる人を笑ってきた社会は、自分の声にも同じ言葉を返します。
「迷惑だ」
「痛い」
「政治的すぎる」
「普通の人はそんなことをしない」
だから私は、「デモはダサい」という感覚を、単なる政治への無関心として片づけたくありません。
問題なのは、デモが好きか嫌いかではない。
民主主義に必要な政治参加の一つを、「普通の人はやらないこと」にしてしまっていいのか。
ということです。
デモの主張には反対していい。
参加しなくてもいい。
でも、
声を上げるという行為そのものを笑う社会は、いったい何を失っていくのでしょうか。
「デモは迷惑だ」と言うのは簡単です。
でも、民主主義にとって本当に怖いのは、街頭で声を上げる人たちなのでしょうか。
それとも、
声を上げることを「ダサい」と笑い、誰も声を上げなくなった社会なのでしょうか。
では、「迷惑なデモ」はどこまで許されるのか
ここまで調べたところで、もう一つ疑問が残りました。
「ある程度の混乱は民主主義が引き受ける」と言っても、
では、どこからがアウトなのか。
道路を塞いだら?
何時間なら?
無届だったら?
店の営業に影響したら?
大音量だったら?
座り込みなら?
議会や政府機関の前なら?
ここから先は、「好き」「嫌い」ではなく法律の話になります。
そこで、日本、米国、英国、フランス、ドイツ、韓国、台湾、さらに国連と欧州人権裁判所まで、実際の法律と判例を調べてみました。
すると、
「迷惑なデモ」の境界線は、私が思っていたよりずっと面白いものでした。
無届なら、それだけで権利を失うのか。
道路封鎖は、どこまでなら許されるのか。
経済的な損失が出たら?
警察は、どんな場合ならデモを解散させられるのか。
そして、
日本は、本当に法律上も「デモに厳しい国」なのか。
ここは、調べる前に私がなんとなく思っていた答えとは、少し違いました。
無料記事では、ここまでにします。
さらに深掘りしたい方へ
では、「迷惑なデモ」は、実際にはどこまで許されるのでしょうか。
道路封鎖、無届、大音量、営業への影響、座り込み――。
「迷惑だからダメ」で終わらせず、国連の基準と日本・米国・英国・フランス・ドイツ・韓国・台湾の法律や判例から、「抗議する権利」の境界線を調べました。
主な参考資料・出典
本記事の執筆にあたり、以下の資料・論文などを参照しました。
-
国連自由権規約委員会(Human Rights Committee)
「平和的集会の権利に関する一般的意見37(General Comment No. 37, Article 21: Right of peaceful assembly)」(2020年)
平和的集会を民主主義における基本的な政治参加として位置づけるほか、交通・歩行者・経済活動への一定の混乱だけでは、平和的集会としての保護が失われないとの考え方を示している。 -
Kobayashi, T., Miura, A., Madrid-Morales, D., & Shimizu, H.(2021)
政治的デモ参加者に対する社会的評価を、日本、韓国、米国、英国、フランス、ドイツ、中国、インド、香港で比較した研究。集団主義的な社会では、デモ参加者を「調和的な対人関係への脅威」と認識することが、社会的回避と関連することを分析している。
日本社会心理学会による論文紹介 -
日本労働組合総連合会(連合)
「多様な社会運動と労働組合に関する意識調査2021」
全国の15~64歳2,000人を対象に実施。「デモンストレーション型」の社会運動について、参加経験率は2.9%。社会運動に対する印象なども調査している。
調査資料 -
坂本治也・富永京子・金澤悠介
「過去の社会運動に対する否定的評価は政治参加にどう影響するのか――日本人の政治参加水準の低さの説明」『ノンプロフィット・レビュー』23巻1+2号、2024年。
1960年安保闘争など過去の社会運動に対する否定的評価と、現在の政治参加との関係を分析している。
J-STAGE -
最高裁判所大法廷
「徳島市公安条例事件」昭和50年(1975年)9月10日判決、刑集29巻8号489頁。
集団行進・集団示威運動と道路交通秩序との関係などが争われた判例。 -
文部省
「高等学校における政治的教養と政治的活動について」文初高第483号、昭和44年(1969年)10月31日。
高校生の政治的活動について、当時の文部省が示した通知。 -
文部科学省
『生徒指導提要(改訂版)』2022年12月。
児童生徒の権利や意見表明、学校における生徒指導の基本的な考え方などを示している。
文部科学省「生徒指導提要(改訂版)」 -
公安調査庁
『内外情勢の回顧と展望(平成22年1月)』「変化する右翼の街宣活動」。
右翼団体が大型街宣車を使用してきた理由について、少人数でも広範囲に主張できる利便性とともに、独特の外観が与える「威圧感」を挙げている。
公安調査庁資料(PDF) -
警察庁
『平成14年 警察白書』。
右翼による街頭宣伝活動について、大音量による騒音被害や交通渋滞、地域住民の生活への影響などを記録している。
警察庁「平成14年 警察白書」
※本文では、各資料が直接示している事実と、筆者による考察・問題提起を区別して記述しています。複数の歴史的・社会的要因と現在のデモに対する否定的イメージとの間に、単純な因果関係が立証されているわけではありません。


コメント