スペイン領セウタへの大規模な移民流入を受け、イタリア政府は、スペインから到着する人に対する国境審査を一時的に再導入すると発表しました。
一部では「イタリアがスペインとのシェンゲン協定を停止した」と報じられています。
しかし、これはスペインがシェンゲン圏から追放されたことや、イタリアとスペインの間で人の移動が禁止されたことを意味するものではありません。
そもそも、シェンゲン協定とはどのような仕組みなのでしょうか。
シェンゲン協定とは
シェンゲン協定は、参加国間の国境検査を原則として廃止し、人々が国境を越えて自由に移動できるようにするための仕組みです。
名称は、1985年に最初の協定が署名されたルクセンブルクの小さな町「シェンゲン」に由来します。
参加国間では、原則として国境でのパスポート審査を受けずに移動できます。
たとえば、フランスからドイツ、ドイツからオランダへ陸路で移動しても、通常は国境で出入国審査を受ける必要がありません。飛行機で移動する場合も、シェンゲン圏内の移動は国内線に近い扱いになります。
EUの説明によると、シェンゲン圏では毎日約350万人が、仕事や学業、家族との面会などのために国境を越えています。
EUとシェンゲン圏は同じではない
注意したいのは、「EU加盟国」と「シェンゲン協定参加国」は完全には一致しないことです。
現在、シェンゲン圏には29カ国が参加しています。
その内訳は、EU加盟国のうち25カ国と、EUには加盟していない次の4カ国です。
- アイスランド
- ノルウェー
- スイス
- リヒテンシュタイン
一方、EU加盟国であるアイルランドはシェンゲン圏には参加していません。キプロスもシェンゲン協力には参加していますが、域内国境検査はまだ完全には廃止されていません。
つまり、「EU加盟国だから国境審査がない」とは限らず、反対に、EU非加盟国でもシェンゲン圏に参加している国があります。
ブルガリアとルーマニアは、2025年1月1日にシェンゲン圏へ全面的に加わりました。
日本人旅行者にも関係する「90日ルール」
日本国籍の旅行者は、観光などを目的とする短期滞在であれば、原則としてビザを取得せずにシェンゲン圏へ入ることができます。
ただし、滞在できる期間は「過去180日間のうち最大90日間」です。
ここで重要なのは、90日間という期間が国ごとに計算されるのではなく、シェンゲン圏全体で合算されることです。
たとえば、フランスに30日、イタリアに30日、スペインに30日滞在すれば、合計90日になります。国を移動したからといって、滞在可能日数が新たに90日に戻るわけではありません。
「国境がない」とはどういう意味か
シェンゲン圏では、参加国間の国境審査が原則として廃止されています。
その一方で、圏外との境界は「シェンゲン圏の外部国境」として管理されます。
ある人がスペインを通じてシェンゲン圏に入国すれば、その後は原則として、フランスやイタリア、ドイツなどへ国境審査を受けずに移動できます。
このため、スペインやイタリア、ギリシャなど、シェンゲン圏の外部国境を持つ国には大きな責任が生じます。
外部国境での管理は、一国だけの問題ではなく、圏内全体の安全や人の移動に影響するからです。
シェンゲン協定は移民・難民政策そのものではない
シェンゲン協定は、しばしば移民・難民問題と一緒に語られますが、両者は同じ制度ではありません。
シェンゲン制度が定めている中心的な内容は、次のようなものです。
- 域内国境での検査の廃止
- 外部国境の管理
- 短期滞在ビザの共通ルール
- 警察や司法機関の協力
- 安全保障に関する情報共有
一方、難民認定や庇護申請、移民の受け入れ、送還などについては、EUの別の法律や各国の国内法も関係します。
したがって、「シェンゲン協定があるから、入国した移民は自由にEU全域へ移動できる」と単純に考えることはできません。
正規の滞在資格を持たない人が、自由な移動の権利を自動的に与えられるわけではないからです。
一時的に国境審査を復活させることはできる
シェンゲン圏は、どのような状況でも国境審査を認めない制度ではありません。
公共の秩序や国内の安全に重大な脅威がある場合、参加国は一定の条件のもとで、域内国境での審査を一時的に再導入できます。
ただし、これは例外的な措置です。
EUの「シェンゲン国境規則」では、国境審査の再導入は最後の手段でなければならず、必要性と比例性を満たさなければならないとされています。
対象となる地域や期間も、脅威に対処するために必要な範囲に限定されます。
過去にも、テロへの警戒、大規模な国際会議、移民流入、新型コロナウイルスの感染拡大などを理由に、複数の国が一時的な国境審査を行ってきました。
今回、イタリアは何をしたのか
スペイン領セウタに約6万人が流入したことを受け、イタリアは、スペインから空路または海路で到着する人に対して、一時的な国境審査を実施すると発表しました。
報道によると、措置の期間は1カ月で、主にEU域外国籍者を対象とする「選択的な審査」が行われます。EU市民の移動の自由には影響を与えないとされています。
したがって、今回の措置を「イタリアがスペインとの国境を閉鎖した」と表現するのは正確ではありません。
また、イタリアが単独でスペインをシェンゲン圏から追放したわけでもありません。
より正確には、次のように表現できます。
イタリアが、シェンゲン国境規則に基づき、スペインからの入国者に対する国境審査を一時的に再導入した。
セウタには特別な事情がある
セウタは北アフリカに位置していますが、スペインの自治都市であり、EUの領域でもあります。
モロッコと陸続きであるため、セウタとモロッコの境界は、EUおよびシェンゲン圏の「外部国境」に当たります。
しかし、セウタと、同じく北アフリカにあるスペイン自治都市メリリャには、スペイン本土とは異なる特別な国境管理の仕組みが設けられています。
セウタからスペイン本土へ移動する際にも審査がある
シェンゲン圏では、通常、加盟国間を移動する際の国境審査は行われません。
ところが、セウタやメリリャからスペイン本土へ向かう船や飛行機では、身分証明書や渡航書類の確認が行われます。
これは、1990年にスペインがシェンゲン協定に加わった際、セウタとメリリャについて特別な扱いを維持することが定められたためです。
スペイン当局は、セウタやメリリャを出発してスペイン本土へ向かう人について、シェンゲン圏へ入るための条件を満たしているかを確認します。
また、セウタやメリリャから他のシェンゲン参加国へ向かう場合にも、外部国境に準じた審査が行われます。
したがって、モロッコからセウタへ入った人が、そのまま船でスペイン本土へ渡り、さらにフランスやイタリアなどへ自由に移動できる仕組みにはなっていません。
「セウタに入ったこと」と「シェンゲン圏への入国」は同じではない
ここで重要なのは、物理的にセウタの領域へ入ったことと、シェンゲン圏内を自由に移動できる法的資格を得たことは、同じではないという点です。
セウタに入っただけで、正規の滞在資格や、EU市民に認められているような自由移動の権利が自動的に与えられるわけではありません。
スペイン本土へ移動するには、パスポートやビザ、滞在許可など、本人がシェンゲン圏への入域条件を満たしていることを示す必要があります。
庇護を求める人の場合も、申請すれば直ちにスペイン本土や他のEU加盟国へ自由に移動できるわけではありません。庇護申請の受理や審査、滞在場所、移送の可否などについて、別の手続きが必要になります。
なぜ特別な制度が設けられているのか
セウタとメリリャは、スペイン領でありながらアフリカ大陸に位置し、モロッコとの間では、通勤や商取引、家族の往来など、歴史的に密接な人の移動が続いてきました。
このような地域事情に対応するため、周辺地域に住む一部のモロッコ国民には、一定の条件のもとでセウタやメリリャへ入るための特別な取り扱いが認められてきました。
しかし、その取り扱いは、セウタやメリリャへの地域的な往来を想定したものです。スペイン本土やシェンゲン圏全体へ自由に移動する権利を意味するものではありません。
そのため、モロッコとの境界だけでなく、セウタやメリリャからスペイン本土へ向かう段階でも、いわば「二段階目の確認」が行われる仕組みになっています。
今回の大量流入でも自由移動が始まったわけではない
欧州委員会は今回、セウタに入った人々が、そのままスペイン本土やシェンゲン圏の他国へ移動している事実は確認されていないと説明しています。
セウタからスペイン本土へ向かう船や飛行機では、もともと身分証明書や渡航書類の確認が行われる仕組みがあるからです。
つまり、セウタへの大量流入が起きたからといって、その人数と同じ規模の人々が、ただちにシェンゲン圏全域を自由に移動し始めるわけではありません。
今回のイタリアの措置は、こうした既存の管理制度があるなかで、さらにスペインからイタリアへ到着するEU域外国籍者を対象に、追加的な審査を一時的に行うものです。
問われているのは「自由な移動」と「共同責任」の両立
シェンゲン制度は、ヨーロッパ統合を象徴する仕組みの一つです。
国境での待ち時間を減らし、観光や物流を活発にするだけでなく、国境を越えて通勤、通学する人々の日常生活も支えています。
しかし、域内の国境審査をなくすためには、外部国境の管理や治安情報の共有について、参加国同士の信頼が必要です。
外部国境を持つ国だけに負担を集中させるのか。それとも、シェンゲン圏全体の問題として支援と責任を分かち合うのか。
今回のセウタをめぐる危機は、移民問題だけでなく、「国境のないヨーロッパ」を維持するために、各国がどのように協力するのかという課題を改めて浮き彫りにしています。
切り取られた情報による過剰反応に注意を
日本でも、海外の移民・難民問題を扱ったニュースの一部だけが切り取られ、制度や現地の事情が十分に説明されないまま拡散されることがあります。
今回のセウタの事例についても、「6万人の移民がスペイン領へ流入した」「イタリアがシェンゲン協定を停止した」という部分だけを見れば、移民がそのままヨーロッパ全域へ移動しているかのような印象を受けるかもしれません。
しかし実際には、セウタからスペイン本土へ移動する際にも審査があり、セウタに入っただけでシェンゲン圏全域を自由に移動できるわけではありません。また、今回イタリアが行ったのも、スペインとの国境を完全に閉鎖する措置ではなく、一定期間の選択的な国境審査です。
移民や難民をめぐる問題には、国境管理、庇護制度、人権、治安、受け入れ国の負担など、さまざまな論点があります。だからこそ、一部の数字や刺激的な見出しだけで判断するのではなく、制度と事実関係を丁寧に確認する必要があります。
切り取られた情報は、ときに必要以上の不安を広げ、難民や移民に対する偏見や排斥感情を強めることにもつながります。複雑な問題を単純化せず、冷静に事実を見極める姿勢が、私たちにも求められています。
参考資料
- 欧州委員会:シェンゲン圏について
- EU理事会:シェンゲン圏の仕組み
- 欧州委員会:域内国境審査の一時的再導入
- 欧州委員会:短期滞在の90日・180日ルール
- ロイター:イタリアによるスペインからの入国審査再導入
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