【日米-必読論文】なぜ日本が真珠湾で失敗したのか

この論文は、ナショナル・インタレストに掲載されたネイバル・ウォー大学戦略学教授、ジェームス・ホームズ氏による真珠湾攻撃で何を学ぶかという論点で執筆された記事を紹介します。
米国の戦略学の専門家が日米両国の先人たちに敬意を表し、終わった後だとなんでも言えると前置きしたうえで、当時対戦国だった米国が日本の立場になったとしたらとしたうえで、「こうしたら日本は勝っていたのではないか」という点を指摘しています。
さらに日本の真珠湾攻撃での教訓をもとに中国は戦略をたてているのではないかと著者は述べています。
長い論文ですが、色々な意味で一読の価値ありです。
また、この論文は著者のジェームス・ホルムスのご厚意により翻訳全文掲載いたします。

Post by Mariko Kabashima 2018/12/17 5:31

National Interest by James Holmes

日本は「眠れる巨人」を起こしていることを知っていた。では、なぜ攻撃したのだろうか?
我々の神聖な先人達にふさわしい追悼をしながら、75年前にここで起こったことから学び、それがアジア太平洋の海の力としてのアメリカの将来について、我々に何を教えてくれるかを見てみたい。

具体的に、真珠湾を敵の目を通して見てみよう。

なぜ日本はそんなことをしたのか? 何もしないことは実行可能な戦略的オプションであり、しばしば良い戦略的オプションである。もし大日本帝国が真珠湾攻撃を放棄し、西太平洋に活動を限定するならば、はるかにマシだっただろう。日本が何らかの自制をしていたならば、連合艦隊司令官の山本五十六が非常に恐れていると通説では言っていた「眠れる巨人」を刺激することは避けていたかもしれない。仮に米国の巨人が目を覚ましたとしても、山本氏が言うところの「最悪な決断」で日本を崩壊させることは避けていただろう。そのことについて考えてみよう。:

・日本はアジア大陸で大規模な陸上戦争を行いながら、オアフ島を攻撃し、太平洋での第2の本格的な戦争を起こした。日本がハワイを攻撃したときにはすでに10年間戦争をしていたことを心に留めておいて欲しい。;大日本帝国陸軍は1931年に満州に、中国本土は1937年に侵攻した。これは途方もない戦いだった。1945年に終戦になると、中国、満州、韓国に約180万人の日本軍が取り残された。これは、海上戦争に匹敵する規模の地上戦の規模を示している。

・日本は、経済力や産業力を誇る敵との戦いを選択し、経済的・産業的資源(すなわち潜在的な軍事力)を配備可能な軍事力に転換するという敵の決意を、日本がそれに応戦する望みをほとんど持たない規模にまで追い込んだ。受賞歴のあるアメリカ海軍の歴史書の著者、ジョージ・ベール前会長は、1940年の海軍の造船予算だけでも、日本海軍の造船予算の10年分を超えていたと指摘している。そのことは、日本が何と戦っていたかを示している。

・そして、眠れる巨人が目覚めた後、日本の指導者は野心的な政治的、戦略的目標を引き返すことが出来なかった。1941年から42年にかけて制圧した広大な領土を防衛しようとしたが、眠れる米国を攻撃して新たな状況を作り出したにもかかわらず、実際はまったく順応しなかった。

強敵との戦いを選択し、その敵を激怒させ、敗北の可能性を認めることを拒否することは、日本の軍事的支配者の一番目の命令の「自滅的行動」に等しい。洞察力の鋭い日本の軍人たちがそれらを想定していたことから、我々は、彼らは予測可能だったということがわかる。

山本提督は、その戦争がどのように展開するかを目の当たりにした。彼は米国との戦いを 「世界全土との戦い」 と見なした。経済力と軍事力のミスマッチは、米国の産業が本格化し、大量の戦争物資が生産されるようになった後に生じたものだろう。山本氏は自身の国政の上層部にこう述べた。 「是非私にやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧にいれます。しかし、その先のことはまったく保証できません」

彼もそうすべきではなかった。我々が歴史書で知っているように、戦争は2年目の1942年から43年、そして3年目の1943年から44年、そして4年目にまで及んだ。1943年末までには、第2の完全な米海軍となっていた—-1940年の二洋海軍法の下で議会によって承認された光沢のある新しいハイテク艦隊—-が、戦闘を行うために戦域に入りこんでいた。山本氏の予言は的中し、その部隊が現場に到着すると、日本海軍の防衛隊を圧倒し始めた。

山本氏の言う通り、日本は迅速に勝つか負けるか2つに一つだった。
しかし彼は間違っていた。真珠湾攻撃計画を実行したことで、日本海軍は迅速な勝利がないことが確実になった。では、もう一度言うが、もし結果が予測できたのであれば、なぜ彼らはそうしたのだろうか? 彼らは何をすべきだったのか?

振り出しに戻ってみる。日本の空襲から75年を振り返って、「どうすればいいか?」と問うてみたい。さて、米国ネイバル・ウォー大学の戦略学教授として、私はこのような話をするたびに、我々の最も神聖な守護聖人、ドイツの軍事理論家カール・フォン・クラウゼヴィッツについて言及しなければならない。さあ、偉大なカールの叡智がここにある。卑怯なマンデーモーニング・クォーターバック*だ!(訳注*・・・結果論からあれこれ文句を言う人 、すでに終わったことをこうすべきだったと批評する人)

言い換えれば、過去の失敗から学ぶためには、激戦の中で、過去の時代の指揮官や政治家が間違っていたことを推測するだけでは十分ではない。彼らから本当の意味で学ぶためには、彼らが選択したことよりも良い結果をもたらしたであろう別の行動方針を考え出さなければならない。

わかるよね?私の第二の故郷であるニューイングランドでは、パトリオット敗北でビル・ベリチック(訳注:NFLのニューイングランド・ペイトリオッツのヘッドコーチ)やトム・ブラディ(訳注:NFL選手)を非難するアームチェアQB**(訳注:口先だけのスポーツ観戦者)を好きな人は誰もいない。
(戦争の)本質(Nature)の反応―クラウゼヴィッツの反応―は次のように問う。OK,どうしたら良かったのだろうか? 賢いきみ。
もし、きみがもっと仰々しい答えを好むなら、私のヒーローであるテディ・ルーズベルトは、重要なのは批評家ではなく、汗と血にまみれたアリーナに立つ男だと宣言した。
そして、実際に実行されたプレーを検証するために使用したのと同じ調査に、アームチェアQBが提案した代替案を適用させる。

ひょっとするとね。おそらく、我々は、この学習のプロセスを通じて、ベリチックやブレイディよりももっと良い指示を出せる。それを我々ネイバル・ウォー大学のプロセスでは、「批判的分析」と呼んでいる。

では、批評家になってみよう。日本の戦略上の失敗を見て、そして、攻撃の目的でハワイに向かって突進する南雲忠一提督が航空母艦任務部隊を派遣した際の、日本の戦術上失敗である戦略的内容について考えてみよう。日本は真珠湾攻撃で誤った。- そして、航空隊たちが真珠湾を攻撃する方法を間違っていた。

まず、戦略としての日本の戦略の失敗を考える。日本人は太平洋で何を望んでいたのか?単純に、彼らはその海洋を日米で分割したいと考えた。北日本からグアムを経てニューギニアに至る緩やかな島々からなるアジアの「第二列島線」の西側にある海、空、そして陸は、日本の保護区となる。

このような野心的な目標を達成するために、資源の乏しい島国は、主に東南アジアからの原材料の輸入を切実に必要としていた。このことが、日本政府の侵略計画にさらなる勢いを加えた。

日本政府は、領土の征服と天然資源の源を、長く拡張した防衛の境界内に封じ込めることを想定していた。その境界は、多かれ少なかれ第2列島線と一致していた。それが外部からバリアになるだろう。日本の戦略家たちは、世紀が変わって間もない頃から、米国を太平洋における次の敵とみなしていた。大日本皇国海軍は1895年の短期間の激戦で中国の海軍力を駆逐し、その後1904年と1905年の海戦でロシア海軍を撃破し、極東におけるロシアの海軍力は数十年間に渡って終焉を迎えた。

そのため、米国海軍は日本海軍にとって次の大きな目標となった。日本の戦略家たちは、別の強力で遠い敵をどう制圧するかを決定する作業に取り掛かっていた。ちょうど、米ネイバル・ウォー大学のような場所にいる米海軍戦略家たちが、米国の海岸から数千マイルも離れた、強力な敵の国内領域に軍事力を投入する方法を熟考したように。

地理的、幾何学的な観点から日本が考えていたことを考えてみよう。日本が防衛境界線を東または南に延長するたびに、円の半径を延長するようなものであった。帝国の中心に位置する日本の本土からの距離の2乗に基づいて、日本の艦隊が警備しなければならなかった海域を拡大した。そして、頑なに日本政府は更なる海域を欲しがっていた。1942年後半には、ガダルカナル島のような遠く離れた場所を含め、常に防衛のフロンティアを広げていたが、円はますます大きくなり、日本の海軍はますます空疎になっていった。1942年半ばには、山本が予想していたとおり、日本海軍の活動範囲はその範囲を超えた。

しかし、この問題は広大な海域を警備することよりも深刻で、長い防衛ラインを守ることは海上でも陸上でも難しい。考えてみてください。ラインを守りたければ、周りのあらゆる地点で相手より強くなければならない。それは不可能である。これとは対照的に、私の敵は、私よりも強くなければならない。彼はラインに沿ったあるポイントに力を集中させ突き抜けることが可能だ。何百マイル、何千マイルにもわたって広がる侵入不可能な防御壁など存在しない。それは間違った考えだ。

要するに、日本は米国の攻撃を中途半端な状態にさせておかない限り、困難な立場に立たされていたのである。そして、それは可能だった。クラウゼヴィッツは、強さの要素は力であり、力は物質的な資源を意味し、意志であると教えている。米国のような軍隊は、世界のあらゆる経済的、産業的資源を誇ることができるが、潜在的な軍事力を実際の軍事力に変換して資源を利用する意志がなければ、軍事的に脆弱なままである。

言い換えれば、日本はかつてほど挑発的な行動をとらなくても、アメリカを弱体化させることができたのである。これは、米国人の戦争への激高に火をつけることを避けることを可能とし、その結果、大型兵器をつくり、配備したいという米国人の願望を抑えることができた。日本はおそらく米国の領土を攻撃しなければならなかったかもしれないが、日本が重視する拠点を攻撃した可能性はあるが、アメリカ人とその指導者たちはフィリピン諸島を攻撃しなかった可能性がある。米国本土では、フィリピンを地図上で見つけることはほとんどできなかった。フィリピンに限定された攻撃が、オアフ島への奇襲によって沸き上がった民衆の怒りを刺激したかどうかは疑わしい。

フランクリン・ルーズベルトの仰々しい言葉を誇りにしている民主党のリーダーも、国民からの熱烈な支持を得ずに長期にわたって戦争を遂行することはできないのだ。真珠湾攻撃に続く世論の怒りがなければ、太平洋を横断して、米国が反撃してしまう可能性はごくわずかだった。1942年末までに開始を主張しなければならなかった海軍と陸海空軍共同の誰何を制限するという(米軍の)中途半端な姿勢は、日本に有利に働いたであろう。

真珠湾攻撃は、(米国民の)復讐に対する大衆の欲求をかき立てた。その恐ろしい決断である激情が、チェスター・ニミッツ司令官とダグラス・マッカーサー司令官が指揮する2人の反撃を煽った。日本政府は太平洋での目標を達成するために、眠れる巨人を起こさなければならなかったかもしれないが、米国を怒りと恨みで満たすことは避けられたかもしれない。米国の猛攻撃を免れたかもしれない。

日本の戦争計画立案者は長い間、米国の反撃の対象が限定されていると考えていた。彼らは日本軍がフィリピン諸島から米国を追放することを前提とし、フィリピンの救援に米国太平洋艦隊が駆けつける計画だということを当然のこととして想定していた。また、米国太平洋艦隊が連合艦隊よりも強力であることも知っていたため、日本の海軍が勝利するには規模を縮小しなければならなかった。

そこで彼らは、太平洋の外側の島々に配備されている航空機や潜水艦は、米国の戦闘艦隊に、西方への航海で小規模な攻撃を加える「妨害工作」というドクトリンを採用した。成功すれば、彼らは戦場に到着する前にアメリカ人を徐々に破壊しただろう。数十年前の中国海軍とロシア海軍の勝利を再現した黙示録さながらの海戦は、西太平洋のどこかで問題を解決したであろう。

日本の海軍は、水中と空からの攻撃によって弱体化した米国の艦隊に対抗して行動するチャンスだと考えていたが、それは正しかった。たとえ敵が船、飛行機、マンパワーの面で勝っていたとしても、自身の本拠地で断固とし大日本帝国海軍は、想定されている迎撃作戦の戦略として、米海軍から軍需品を奪う可能性があるかもしれない。または、日本の立場から考えれば、西太平洋への参入費用は、アメリカが支払う費用よりも高くなる可能性があった。

もしそうなら、米国は合理的なことをするかもしれない。彼らはフィリピンで敗れ、絶望する可能性もあった。彼らは西太平洋を放棄するかもしれない。それは戦わずして日本に譲ることである。日本は艦隊戦を回避することなく勝利しただろう。

だから、真珠湾攻撃は戦略として致命的な欠陥があった。日本の指導者たちは、真珠湾攻撃の前に、自分たちが望むものの一部、あるいは全てを手にした可能性があった。日本の指導部は長期的な戦略的成功を一時的な利益のために葬り去った。バトルシップロウを攻撃することは、島国帝国にとって巨大な規模の「自滅的行動」であった。

それでも彼らはそうした。なぜか?

その理由の一つは、日本の指導者たちが自国の海洋史を読んだことにある。このような歴史的な記憶は、日本海軍内でも異なる意見を持っていた。日本は、宣戦布告をする前に、1904年から05年にかけての日露戦争を始めるとき最初に攻撃した。旅順港でのロシア艦隊に対する魚雷攻撃は恒久的な物理上の被害はほとんどなかったが、精神的な被害は広範囲に及んだ。それ以来、ロシアの司令官たちは旅順港での銃の下におびえて避難した。そして、出撃すると東郷平八郎提督の連合艦隊に撃破された。旅順では真珠湾攻撃での魅力的な先例を作った。先制攻撃は、1904年にロシア人に有効だったように、米国の司令官を威嚇しただろう。

対馬海峡の戦い、日露戦争のクライマックスである海戦、旅順攻囲戦で締めくくった。1904年8月、ロシア太平洋艦隊を東郷に敗れた皇帝は、バルト海艦隊を極東に派遣するよう命じた。英国はスエズ運河通過を拒否したため、アフリカを迂回してインド洋を通過し、中国の海に侵入することを余儀なくされた。これにより、大幅な修理やメンテナンスを必要とせずに1.8万マイルを走れるようになった。東郷は日本と韓国を隔てる狭い海である対馬でロシア軍を待ち構え、ぼろぼろになったロシア皇帝軍を手玉にとった。

ある意味では、日本の戦略家は対米戦略を形作る上で、対馬と旅順の先例の間で議論をしていた。対馬をモデルにした作戦が成功した一方で、対馬で豊富な経験を持つ山本は1941年初め、リーダーシップを発揮して旅順攻囲戦にテンプレートを移行した。その攻撃はその12月にハワイに及んだ。その攻撃が旅順攻囲戦での攻撃と同じ影響を与えなかったことはわかっている。

しかし、たとえ攻撃が賢明でなかったとしても、日本は攻撃から価値を見出すことはできただろう。12月7日の大日本帝国海軍の戦法を見てみよう。日本から中国沿岸の黄海を渡って旅順港を急襲するのと、東方数千マイルの真珠湾を急襲するのとでは、明らかな違いがある。一つには、東郷の艦隊は、まずロシアに攻撃を加え、その後は停泊してロシアを港で封じ込めることができた。その任務を支えるために日本の海港が近くあった。対照的に、南雲の艦隊は、勝利するためにハワイ諸島周辺に長くとどまるには、燃料も物資も少なすぎた。兵站がさらに必要になった。

真珠湾攻撃は、旅順攻囲戦ではありえない行きあたりばったりの特徴を持っていた。どちらの先制攻撃も本質的に優柔不断である。しかし、日本海軍は1904年には圧力を維持できたが、1941年にはできなかった。

そうなると、南雲の航空隊はどうしても太平洋艦隊総数を狙って攻撃しなければならなかった。ニミッツ司令官が太平洋艦隊の指揮を執るためオアフ島に到着した際に述べたように、日本海軍は他の標的ではなく、米国の軍艦を追いかけていたため、甚だしい失態を犯した。はい、たびたび指摘されるように米国の空母は海上だった。それらを攻撃すると損害を与えただろう。しかし、ニミッツは、日本軍は兵站ではなく艦隊を攻撃して好機を逸したと考えた。日本の飛行士は、損傷した船舶の大部分を修理する乾ドックを撤去することもできた。彼らは艦隊の燃料供給を取り除くことができたはずだ。

艦隊の後方支援を取り除けば、衰退していく。船舶は燃料油なしでは航行できない。飛行機は航空燃料なしでは飛べない。船員は定期的な食糧の輸送なしには食事ができない。もし日本の戦術家がこの攻撃を賢明に計画していたならば、インフラを主な標的とし、乾ドックや燃料貯蔵所、その他の支援施設であるタンカー、弾薬船、駆逐艦、潜水艦、水上機などを破壊した後に残った軍需品で艦隊を攻撃していただろう。そうなれば、米国の反撃はかなり後退し、日本帝国はアジア太平洋地域での征服地を固める時間が与えられたことだろう。

戦時中の東條英機首相は、戦後の司令官との会談に先立ち、太平洋戦争の結果を左右する決定的な要因として、米海軍の補給能力、つまり常時海上にいる能力を挙げた。確かにそうだった。高い地位からの証言。

真珠湾攻撃がなかったとしても、米国は太平洋で戦争をしていたと主張する人もいるかもしれない。我々の同盟国は攻撃を受けており、我々は合意を守る義務があった。日本の軍隊は確かに南シナ海の「南部資源地域」と日本の本島を結ぶ海路にまたがるフィリピン諸島を攻撃したであろう。もちろん、フィリピンは1898年以来米国の領土だった。日本政府は、米国の拠点をこの海上交通路に沿って維持することはほとんど不可能であり、日本の経済的なライフラインに絶え間ない脅威をもたらした。米国政府は、米国本土への攻撃も見逃すことはできなかった。

これを否定することはできない。フランクリン・ルーズベルト大統領が、ウィストン・チャーチル首相率いる英国やオランダとの同盟を尊重していたことは間違いない。しかし、2つの事について考えてみてほしい。一つには、米国内の世論は、フィリピン攻撃後の太平洋での攻撃行動を要求していない可能性がある。もちろん、12月7日以降のように大きな声で行動を求めることはなかっただろう。

結局のところ、市中で事件になったのは太平洋戦争だけではなかった。大英帝国の流れを汲む米国は、常に大西洋をはさんで東方を向いていた。我々はかつて、そして今もなお多くの議論がなされているヨーロッパ・ファーストの国である。ヒトラー率いるドイツとの戦争は、真珠湾攻撃がなければアメリカの忠誠心を最初に主張したかもしれないし、太平洋戦争は連合国のヨーロッパにおける活動が完了するまでは、依然として劣勢にあったかもしれない。その頃には、日本は極東での利益の一部あるいは全てを確保していたかもしれない。時代は味方していただろう。

2つ目にはアメリカ海軍と海兵隊と陸軍が太平洋を横断し、西に向かって進軍し始めた後も、日本軍が戦前の作戦計画を堅持していたならば、日本は米国の攻撃に抵抗するより優位な立場だっただろう。12月7日の夜までに日本が直面した復讐心に満ちた米国というよりは、ヨーロッパでの戦いに疲れ、比較的身が入らない米国と直面していたのかもしれない。

住民から奪い取った島々を統合し強化することで、より短い島防衛圏を保護することを選ぶことによって、米国にはアメリカ人が負担するよりも高いコストを課す可能性がある。米国は、日本を東アジアの覇権国にした何らかの交渉による解決を受け入れたのかもしれない。日本は忍耐強く、自制し、戦前の計画に固執すべきだった。妨害工作は、東部太平洋への一回限りの先制攻撃よりもはるかに有望であった。

我々は、今日、これから何を学ぶことができるのか?いくつかある。第一に、真珠湾攻撃から75年が経過した今も、米国は西太平洋の大国であり続けているが、米海軍の兵站は驚くほど希薄である。日本海軍がすべきだったと私が提案したのは、海上の艦船に銃弾、豆類、黒油を届ける海軍の能力を攻撃することだったが、今でも潜在的な敵にとっては選択肢の1つだ。私が彼らだったら、それが私の選択肢だ。

第二に、中国やロシアとの間で戦闘力をスクラップにした後、すぐにそれを復活させることは難しい。次期政権は、今日の約272隻から増加して、350隻の海軍を支持していることが記録されている。しかし、これらの船はどれも議会で承認されていない。1940年の両様艦隊法に相当する2016年の法律はまだ制定されていない。我々は、より大きな海軍とそれに付随する統合部隊、すなわち、戦闘での損失を受け、戦い、勝利するのに十分な数と戦闘能力を備えた部隊を求めなければならない。より多くの船?かかって来い!

第三に、将来の敵が帝国日本のように無謀であるとは期待しないようにしよう。1956年、ドワイト・アイゼンハワー大統領は、絶えず働きづめだったジョン・フォスター・ダレス国務長官に次のように語ったと伝えられている。「単に何かをしてはいけない、そこに立て」ときには、何もしない、あるいはそれほど野心的でない行動が、最も賢明な戦略である。古い方法がベストな場合もあります。何もしないチャンスを逃すな。

日本と違って中国は、1945年に日本が崩壊して以来、米国が主導してきた海洋通商の自由主義的秩序であるアジア秩序のルールを書き換えるために、周辺地域に海軍力と空軍力を増強することに満足しているようだ。時には好戦的で常に自己主張的だが、中国政府は戦いを仕掛ける気はないようだ。海洋における運命を実現するために特に急いでいるようには見えない。

要するに、これは山本から学んだと思えるライバルだ。眠れる巨人(米国)にジャブを打たないでください、もしそうするなら、決意させないでほしい。コンテストの終盤まで彼を眠らせておけば、あなたが勝つかもしれない。中国は真珠湾の真の教訓を学んだのかもしれない。同じように準備をしよう。そうすれば、75年前にここに敗北した人たちは、再び優秀な軍隊になるだろう。

著者:ジェームス・ホームズ (James Holmes)

ジェームズ・ホームズは、ネイバル・ウォー大学の戦略学の教授で、最近では海軍功労者民間軍務章を授与された。
執筆本
Red Star over the Pacific

(海外ニュース翻訳情報局 樺島万里子)

※無断転載厳禁

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