【賛否両論】29歳で安楽死:オランダからの暗いニュース

世界には、安楽死を合法としている国や地方があります(身近な国では、韓国で昨年末に尊厳死法が導入されました)。しかしこれは、こと人間の生死に関わる問題だけに、法的な線引きをするのが非常に難しい問題です。ナショナル・レビュー誌に掲載されたこちらの記事では、先週オランダで合法的に安楽死を施された精神障害の29歳の女性のケースをもとに、この微妙な問題に問いを投げかけています。この記事は、ナショナル・レビューから紹介します。

Post 2018/02/01  23:27

【National Review  by  by ANDREW T. WALKER 2018/01/31】

幇助自殺が合法化されると、次に問われるのは必然的に「誰にその資格があるのか?」だ

オランダが安楽死を合法化したというニュースは、いかに世界が寛大化したかという証だ。それはとどまるところを知らない。精神障害の29歳のオウレリア・ブロウアーズは先週末、彼女の望み通りに安楽死の処置を受け、安楽死や幇助自殺への規制が緩くなっている国々が面している危険な道のりを我々に突き付けた。

オランダの医師たちが自殺幇助の実施にあたり、必ずしも規制通りの実施要項に即した処置をしていない、との証拠が残っている。ブロウアーズの報せに続き、オランダで痴呆の老齢女性が本人の意思に沿わずに安楽死させられたとの陰惨なニュースも報じられた。

オランダでのそれらの事例は、安楽死法が主観的な基準で濫用されているという、最もやっかいな現実を示している。安楽死は、末期症状の患者に対して「尊厳死」という名で紹介されている。だが、精神に障害を負った若い女性を安楽死させることは、「尊厳を伴った死」からはかけ離れている。外見上健康な若者を精神障害という理由で法的に死に至らせることは、その線引きがどこにあるのかという法的な疑問を生む。そういった行為が禁止された国では、認知的・肉体的能力を徐々に失う神経性の癌に侵された患者の身震いするような悲惨な話を持ち出したりする人もいるだろう。そのような患者の家族からもらえるであろう感謝の印は、愛する人々を苦しみから救うための法律を通そうとする立法者の心の琴線に触れるだろう。

安楽死を推進しようとする人たちは、安楽死法が時間を追うにつれて、いかにその規制が緩くなり、いかに安楽死の対象となる患者の状態や年齢が厳格に規定されていようとも、それがいつの間にか広がってしまうという事実を認めたがらない。安楽死が合法化されたところで、それを実際に行使するための正当化の理由は、時を追うにつれて拡大化されてしまうものだ。カリフォルニアで「終末期の選択法」が実施された最初の年、その条項のもとで111名が命を絶った。もしカリフォルニアが世界的な潮流に乗るならば、カリフォルニア州民は続々と州に認可された自殺を遂げることだろう。

ヨハネ・パウロ2世はそのような「死の文化」に警告を発した。はっきりさせておこう。死の文化こそが、西洋文化に妥協を強いるものだ。よく言えば、安楽死擁護者は、哀れみと慈悲の心から、患者たちを救おうとしている。最悪の場合、彼らは実利的で反生命的なものの見方から行動している。そのような超自主的なディストピアでは、人間の尊厳というものは、道徳律とは切り離された、単なる選択肢としか見なされないだろう。

無神経に聞こえるかもしれないが、一個人の苦痛は、いかに世間一般の苦痛に対する理解や反応に安楽死の道義性が影響するかということに比べると、見劣りがしてしまう。人の生命を奪うことを合法化したり医学化したりすることの影響を指摘するにあたって、人々の純粋な苦痛を見逃したり軽視したりするつもりはない。だが、死の文化は、生命の尊厳に対する責任をゆるやかに覆い隠してしまうだろう。そのような文化は苦しみや苦痛を取り除くことを約束してくれるかもしれないが、人が苦痛とともに会得できる深い経験を見過ごしてしまう。人が自ら死を選ぶということは、弱さや世間一般に蔓延する傷つきやすさとの関わりを否定するという意味において、悪魔の契約書のようなものだ。この文化は、生命保険会社国家予算に対して病気のコストを測るプロセスにおいての人々の価値や尊厳を差し引いて、実利主義者に計算をさせ始めた。死はそれによって巧妙に招待され、いや、むしろ推奨されている。苦痛に対しては、自殺よりもっと倫理的な対応策がある。

安楽死を検討するにあたって、公共政策上、ある重要な原則が議論されようとしている。もし自殺に対する幇助が癌患者に対して合法化されるならば、何故それが精神障害者に対して適用されるべきでないのか? アルコール中毒者には? それは、対象が増えるに従って決められていくことだろう。安楽死制度は、一旦合法化されてしまえば、規制することは非常に困難になる。

オランダがオウレリア・ブロウアーズの悲劇的な例で示したように、安楽死法は重要な問いを投げかける。それは、いったい我々はどこで線引きすべきか?とういことだ。たとえ最小限のところに線を引いたとしても、それを少しずつ拡大するといった議論は必ず起こり、やがてそれに対するいかなる規制も正当化することが難しくなるのは目に見えている。

(海外ニュース翻訳情報局  加茂 史康)

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