【米国:ポリコレ】子供たちが「親友」を作ることを排他的だとして、学校が禁止を検討

「差別反対」というのは耳に聞こえのいい言葉です。しかし、行き過ぎた反差別活動というものはときに非常識な結果を生み出します。ナショナル・レビューに掲載されたこちらの記事を読んで、ほとんどの日本人は呆れるのではないかと思いますが(そう信じたいですが)、これはアメリカやヨーロッパで現実に起こっている話です。日本でも、行き過ぎた反差別意識がいずれこのような議論を巻き起こさないと誰が言い切れるでしょうか。

Post 2018/01/13 19:00

National Review  by Katherine Timpf   218/01/09

ソーシャル・エンジニアリング(人間の心理的な隙や行動のミスにつけ込んで個人が持つ秘密情報を入手する方法)や言葉狩りは人間の本性を変えられない。私たちは皆、ある人たちをその他の人たちよりも好きになる。

USニューズ&ワールド・レポート誌の記事によると、アメリカとヨーロッパの一部の学校で「子供たちが親友を作るという発想自体を禁止することを真剣に検討している」そうだ。なぜなら、親友を作ることはその他の子供に対する差別であり、子供たちを傷つけるからだ。

「親友を選ぶという考えは私たちの文化に深く根差しています」と、児童・家族心理学者のバーバラ・グリーンバーグ博士は『学校は子供たちが親友を作ることを禁止するべきか?』と題した論文で述べる。

「とは言うものの、私の考えでは、親友を持つことを禁止する動きにも利点はあります」と彼女は続ける。

グリーンバーグによると「ミドルスクールの女子生徒が隣の席の子に、前に座っている子と親友だと告げることにより、非常に排他的なことが起こっています」

「自分が親友だと思っていた友達が今や別の子を親友にしたと言っては、私のセラピーオフィスに続々と子供たちが駆け込んでくるのです」と彼女は続ける。

「親友」を禁止するという案について「やってみればいい」とグリーンバーグは説く。彼女の説明はこうだ;

私はソーシャル・インクルージョン(訳注:社会的排除と訳されるソーシャル・エクスクルージョンの反語。平成12年厚生省報告書によると、「全ての人々を孤独や孤立,排除や摩擦から援護し,健康で文化的な生活の実現につなげるよう,社会の構成員として包み支え合うこと」)の考えを支持します。親友という言葉は本質的に排他的な意味を含みます。子供、いや、ティーンエイジャーの頃ですら、親友は頻繁に入れ替わります。そのような変化は心理的な苦痛となり、子供たちは親友についてよりも、近しい友達、もしくは単に友達について話している方が、苦痛が軽減されます。暗黙の序列というものが存在し、序列が存在するところには、問題が起こります。私は、誰にも親友と呼ばれない子供たちを見てきました。悲しいことに、その子たちは一人で昼食を取り、他の子供たちが親友同士で遊んでいるときに一人で家に居たりします。

親友は「排他的」なものだろうか? 確かに。親友のいない子供たちはときに自分をつまらない存在だと思うだろうか? そのとおり。だが本当は、グリーンバーグは多くの人々が禁句を作り出す際に犯すのと同じ間違った考えに立っている。それは、言葉を言い換えることで物事の真実を変えられると信じていることだ。

そんなものは、変わりはしない。

グリーンバーグの主張どおりに、子供たちに「親友」の代わりに「仲の良い友達」と言い換えさせたところで、彼ら彼女らの友情に何か変化が起こるわけではない。それはちょうど、別れた夫を「私のボーイフレンド」と呼んだだけで復縁することがないのと同じだ。

考えてみればいい。たとえ学校が子供たちに「親友」という言葉を使うことを禁じたとしても、本当に通じ合う友達を作る子供たちはいるし、周りから見てもその二人は他の誰よりも近しいのは明らかだ。親友のいない子供たちは、たとえば、クラスの行事でパートナーを選ぶときに(もしそれがまだ禁止されていなければの話だが)、自分には親友がいないことに嫌でも気付くことになる。そしてその子たちは、「仲の良い友達」を、その「仲の良い友達」の「仲の良い友達」(つまり、その友達の「親友」だ)から渋々と分けてもらうことになるのだ。

小中学校で親友がいないというのはつらいものだ。私につらい経験があるので、それはよくわかる。体操の時間を、私をいじめていた(煙草の匂いのする)女の子とよく一緒に組まされて過ごした。なぜなら、私には「親友」ではなく単に「仲の良い友達」しかおらず、その子は誰か別の子の「親友」だったからだ。でも、もし私の学校が「親友」を禁止していたとしたら、私の学校生活は楽になっただろうか? もちろん、そんなことはない。いくら子供でも、私はそこまで間抜けだったわけではない。社交上の合図というもので、私は誰と誰が親友同士だかすぐわかっただろうし、自分に親友がいなかったことぐらいわかっただろう。

苦痛や差別のない世界は素晴らしいものだろう。でも、そんな世界を作るのは大変だ。ひとつ確かなことは、人間は生まれながらに排他的なものだ。我々は皆違っていて、お互いとそれぞれ違う風につながっている(もしくは、つながっていない)。この世に存在したすべての人間が、自分はある人たちをその他の人たちよりも好きだということを知っている。それは自然なことで、この先も変わりはしない。とりわけ、あるものの呼び方を禁止するなどという単純な方法では。
H/T Collage Fix

(海外ニュース翻訳情報局 浅岡 寧)

*無断転載禁止

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