【英国・機密文書公開】天安門広場での大虐殺で少なくとも1万人が死亡

 

 

天安門事件についての機密文書が英国国立公文書館で公開されました。他の国内メディアも発信していますが、当サイトはもう少し詳しく発信している、香港のニュースサイト「香港01」と英国インデペンデントの記事を紹介いたします。

Post 2017/12/30 9:27

The Independent  by Adam Lusher  2017/12/23 香港01 勞顯亮 2017/12/20】

1989年「6月4日事件」からほぼ29年になる。
先月、英国国立公文書館が、英国香港政府、英国諜報員、並びに中国軍事配備の状況についての記録を公開した。
香港のニュースサイト「香港01」の記者達は、この機密文書を解読した。
そのうちの一部は、人民解放軍警察の手入れ翌日、英国の中国大使、アラン・ドナルド卿の英国への公電である。
英語で書かれた機密文書に言及された2つの公電に引用されている経路は、人物の身元が非常に敏感なことであるせいか、開示することができないことを証明するために黒く塗られていた。
ドナルド卿の公電は、中国人の過去の証言が非常に正確であると確認され、この中国人の情報源が事実・憶測・反駁の類ではないと指摘している。

1989年の天安門広場の大虐殺による死亡者は少なくとも10,000人以上で、極秘の英国外務省の電報は、「『原始的』と形容された中国軍部隊に殺された」と断言している。

新たに機密扱いを解かれたこれらの文書は、大虐殺の24時間も経たないうちに書かれ、最も一般的に用いられる約3000人よりはるかに多くの死亡者数が記されている。
また、大虐殺の悲惨な詳細も記されている。
負傷した女子生徒が命乞いをしたが、銃剣で突かれ、遺体が排水溝にホースの水で流され、怪我をした3歳の娘を助けようとした母親は銃撃されたと主張している。

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1989年6月5日、中国の英国大使、アラン・ドナルド卿によって報告された極秘公電は、英国国立公文書館(Kew)に保管され、香港のニュースサイト「香港01」によって発見された。

大使は、6月3日から4日の夜の虐殺事件は、中国の最高国家行政機関である国務院の「親友」と話した一つの情報源に基づいていると述べた。

アラン卿は、「(国務院のメンバーについては、)以前、信頼性が証明されており、事実を憶測と噂から区別するよう注意していた」と述べた。

この果敢に詳細を記した文書の中で、アラン卿は、「北京の天安門広場周辺の何千人もの民主主義推進デモ隊に対する『残虐行為』が、文盲者の60%で『原始的』と表現した山西省27集団軍が一体となって動いた」と英国政府に伝えている。

アラン卿は、「これまでの軍隊の波は、多くの人が学生だった抗議者を分散させるために非武装で介入していた」と述べている。
そして、アラン卿は、「27集団軍のAPC(装甲兵員輸送車)は、群衆をひく前に、群衆にむかって発砲した。APCは、65kph [時速40マイル]で軍隊と一般市民をひいた。」と記している。

アラン卿は次のように付け加えた。
「学生たちは、広場で1時間の猶予を与えられると理解していたが、その5分後にAPCが攻撃を開始した」

「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが轢き殺された。そして、APCは何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。遺体は、焼却され、ホースの水で排水溝に流されていった。」

アラン卿は、「中国国務院の一部のメンバーが、内戦勃発の危機が差し迫っていると考えるようになった後、天安門広場のデモ隊への激しい弾圧が起きた」と述べた。

また、アラン卿は、鄧小平の共産主義政府が、その軍隊が「最も信頼性が高く、従順である」ため、27集団軍を選択したとの推測を報告している。

「27集団軍はダムダム弾*を使用し、狙撃兵はバルコニーや路上掃除人など多くの一般市民を標的練習のために撃ったと言われている」と報告している。

ダムダム弾*・・・ダムダムにあるダムダム工廠で製造された対人用拡張弾頭の総称。いずれも命中時に弾頭が裂け、肉体組織への激しい裂傷と止血しづらい銃創により体の末端部や腹部に命中しても殺傷力が高まるようになっている。戦争遂行には不必要なほどの殺傷力を持つとして、1899年にダムダム弾禁止宣言がなされ、体内で弾頭が変形する弾丸の使用が禁止された。

アラン卿は、次のように述べている。
「27集団軍は誰にも救いを命じなかった」
「負傷した女子学生は命乞いをしたが、銃剣で突かれた。」
「3歳の女の子が負傷したが、助けようとした母親も他の6人と同様に撃たれた」

公電では、虐殺が最初の殺害の波の後でさえも続いたと主張している。
「1000人の生存者は、逃げることができると言われたが、特別に準備されたMG [機関銃]よって銃撃された」
「救助をしようとした軍の救急車は撃ち抜かれた。それは、中日友好病院の救急車だった。救命隊が死亡したため、負傷した運転手が攻撃をかわし猛スピードで走ろうとしたが、対戦車火器によって爆破された」

その公電によると、別の事件では、その軍隊は、自身の将校の1人を射殺したという。

アラン卿は次のように書いている。
「27集団軍の陸軍将校は、自身の軍隊によって撃たれた。軍隊が、将校を射殺しなければ、彼らが撃たれていたと説明した」

アラン卿の公電の最後の文章は次のようになっている。
「一般市民の死者の数は、最低見積もっても10,000人」

この推定値は、一般市民の死者の数だという中国政府が発表した数字200〜300人を上回っている。
死亡者数は明らかではなかったが、6月4日の朝早く、中国赤十字社は2,700人が死亡したと推定した。
これはまだアラン卿が提示した数より少ないが、大虐殺についてのほとんどの報告は現在、赤十字の数字かそれに近いものである。

 

しかし、2014年に、米国政府の機密文書によれば、中国の軍事関係者は、共産主義体制の内部調査では10,454人が死亡したと考えていると報告されている。それは、アラン卿の当初の推定に近い。

中国政府は、反乱暴動や反乱に対する正当な防衛策として、天安門広場への対応を常に特徴づけてきた。

6月3日の夜、UPI通信社は、中国のテレビで繰り返し声明が放送されたと発表した。

そして、以下のように主張していた。

「今夜、重大な反革命者の反乱が起こった。凶悪犯罪者は人民解放軍の兵士を激しく攻撃し、武器を押収し、バリケードを建て、中華人民共和国政府を打倒しようと兵士や役人を叩いた」
「人民解放軍は何日も抑制を行使しており、今や反乱を断固として打ち消さなければならない」
「道理に耳をかたむけることを拒否する者は、彼らの行動や結果に全責任を負わなければならない」

 

(海外ニュース翻訳情報局 MK)

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