【米国:訃報】冷戦時代の露・中国で伝説のCIA局長ジャック・ダウニングが80歳で死去

By Mariko Kabashima 2021/07/01

冷戦時代、モスクワと北京でCIA支局長を努めたジャック・ダウニング氏が亡くなりました。享年80歳。
ダウニング氏といえば、伝説の冷戦時代のスパイの親玉というイメージですが、本人は全く出世に欲のない人物で、米国のためにインテリジェンスを立て直し、インテリジェンス養成に尽力した人物です。

一度1975年にCIAを退職してから、1997年に当時のCIA長官ジョージ・テネットから引き抜かれCIAのスパイ活動の立て直しに貢献しました。

そういえば「テネット」という映画がのタイトルとCIA長官の名前が同じです。
映画では、「テネット」はラテン語では「保有する」という意味があり、英語では「主義」や「信条」の意味があり、劇中字幕では「主義」と訳されていました。
もしかしたら、作者は本当は単にTenet長官の名前を選び、後にこういう意味付けをしたんじゃないかなあと思ったりもします。

いずれにしても、冷戦時代と比べると、インテリジェンスの形も当時からすると随分変わって来ているだろうと思います。
ジャック・ダウニング氏死去も、冷戦時代からの戦い方の終焉を感じさせます。

この記事は、ニューヨークタイムズからご紹介します。


《引用記事 ニューヨークタイムズ 2021/06/30》

冷戦時代の首都のCIA支局長ジャック・ダウニングが80歳で死去

彼はモスクワと北京の両方で支局長を務めた唯一の当局者だった。その後、1997年に退職した彼は、CIAのスパイ活動を助けるために引き抜かれた。

冷戦時代のもっとも激しかった首都モスクワと北京の両方で諜報員を勤めた唯一のアメリカのスパイ組織のリーダー。
硬直化したCIAを経営危機と急落する士気から救うのを手伝うため退職を取り消されたジャック・ダウニングが日曜日、オレゴン州ポートランドで死去した。享年80歳。

息子のジョン・G・ダウニング氏によると、死因は大腸がんだという。

CIAにほぼ30年間勤務したダウニング氏は、1997年にCIAの5年間で4代目の局長ジョージ・テネットから、CIAの秘密諜報部門である作戦部の長官になるよう依頼された。

彼の任務は、ソ連におけるアメリカのネットワークを暴露したアルドリッチ・エイムズのような二重スパイによる被害や経営改革や予算削減によって作戦要員の人数が減り、現場でリスクを取ることができなくなったことによるダメージを修復することだった。

ダウニング氏は、作戦担当副局長という肩書きでこのポストにいた2年の間にリクルートを積極的におこない、スパイ技術と外国語の訓練を改善し、テロを監視するためにアフリカやその他の地域に地域本部を再開した。彼はまた、下院情報特別委員会委員長として海外でのスパイ活動のための資金調達のための小冊子を再開したフロリダ選出の共和党下院議員ポーター・ゴスと連携を結んだ。(ゴス氏は後に、ジョージ・W・ブッシュ大統領のもとでCIA長官に就任)

ダウニング氏が1999年に2度目の退職をしたとき、同氏は冷戦時代の戦いと勝利にキャリアを捧げた最後の世代のCIA現場責任者の一人だった。

「ジャックは伝説的指導者、先駆者として尊敬されている」 と現在の作戦部副局長のデイビッド・マーロウは語った。マーロウ氏は同氏を「最も困難な外国の環境でスパイ活動を実践するCIAのロールモデル」と表現した。

ダウニング氏は、愛する組織 (上司ではないにしても) を救うために忠誠心をもって戻ってくる価値ある退職者だった。ダウニング氏の気性はともかく、(英国の推理小説家)ジョン・ル・カレの作中のジョージ・スマイリーを彷彿させた。。ベトナムで2度の戦闘従軍経験のある元海兵隊員であるダウニング氏は、自制心があり、漢詩を読む勤勉なルネッサンス的教養人で野心がなかった、と複数の同僚たちは語っていた。

モスクワでダウニング氏とともに働き、その後機関とエネルギー省の地位まで昇ったロルフ・モワット・ラーセンは電話インタビューでこのように回想した。
「彼は私が今まで見た中でただ一人、大々的な昇進を受けてひどくがっかりした人だった。彼はスパイ活動が大好きだった」。

しかし、別の元同僚のビル・ロフグレンは、ダウニング氏をスパイと呼ぶのは表面的なことだと強調した。
「彼はスパイではなかった。彼はスパイをリクルートする人物でした。 いわゆる作戦要員でした」とロフグレン氏。
「彼が潜伏していたとしたら、彼は捜査官の生命と身元を守るために潜伏していました」。

ジャック・グレゴリー・ダウニングは1940年10月21日、ホノルルで生まれ、ニーマン・マーカスの高級婦人服のバイヤーであった母親のベニータ・ダウニング (ハーディング) によって育てられた。彼の父親ジョンは海軍士官で、ジャックが1歳のとき、第二次世界大戦の初期に太平洋上で戦死した。父親の死後、母はジャックと妹を連れてテキサス州にある母方の祖父母の家に移り住み、そこで彼は育った。

彼はペンシルバニア州ポットスタウンのヒル・スクールに通った。その後、ハーバード大学で中国語、歴史、アジア学を専攻し、1962年に卒業した。その後、海兵隊ではベトナムのライフル中隊で歩兵中尉として4年間任務についた。1967年の金曜日に除隊し、次の月曜日にCIA職員として宣誓就任した。

その後、CIA東アジア局の局長を務め、カーター政権時にCIA長官を務めたスタンスフィールド・ターナー提督の特別補佐官を務め、マレーシアのクアラルンプール支局長に就任した。

1980年代初頭、ダウニング氏と同庁の変装の達人のトニー・メンデスは、スパイが外国資本のなかで気づかれずに出回ることができるようにスパイのための大学院課程を考案した。

ロシア語を学んだダウニング氏は1986年から1989年までモスクワ支局長で、ロシアの二重スパイを仕掛けるKGBの陰謀を阻止した。彼が支局長になったのは、CIAのワシントン駐在員であったエイムズ氏の裏切りによって、CIAのために働いていたロシア人のほとんどがKGBになった時だ。諜報員の中には処刑された者もいた。エイムズ氏は1994年にスパイ容疑で有罪判決を受け、終身刑で服役している。

ダウニング氏は、同局で勤務すると同時に、情報システムとコンサルティング会社の副社長だった。

息子のジョンに加えて、妻のスザンヌ(ライゼンリング)・ダウニング、娘のウェンディ・ロジャース・ダウニング、姉のロベルタ・リー・ジュレック、そして4人の孫が残されている。

元CIA局長のリチャード・ヘルムズとともにダウニング氏は、職務中に殺害された工作員の子どもたちの教育費の支払いを支援するCIA職員記念財団の創設に尽力した。彼は同庁の最高賞である 「Distinguished Intelligence Medal」 を受賞した。

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1999年に退任したダウニング氏は、ゴス議員の言葉を借りれば、「出世主義、回廊政治、リーダーシップの欠如によって衰退していた作戦本部の使命感と強さを取り戻した」と称賛された。

また、「ジャックの下で、作戦本部の職員は、テロリストのアジトに侵入したり、ならず者国家の閣僚室に入り込んだり、麻薬の動きを探知して混乱させる方法を見つけ出した」とも述べている。

ダウニング氏の2年間の在任期間中、自主退職者は半数以上減少した。彼はまた、退職者のための予備部隊を復活させ、すべての作戦将校のためのパラシュート訓練を再導入した。

「普通の人は飛行機から飛び降りたがらない」 と彼は1999年にワシントン・ポストに語った。

「我々は普通の人を探しているのではありません」 (ダウニング氏)

(海外ニュース翻訳情報局 樺島万里子 翻訳・文)

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