“ヘルスケア”などというものはない

ナショナルレビューのパスカル・エマニュエル・ゴブリー氏のヘルスケアに関するコラムを紹介します。ゴブリー氏は、アメリカのヘルスケアの不都合な真実についての一連のコラムを執筆しています。いくつかのコラムは保守派をより不機嫌にし、また別のコラムは革新派を不機嫌にしますが、ほとんどのコラムはすべての人を不機嫌にするものです。

post 2017/10/05 23:04

National Review by PASCAL-EMMANUEL GOBRY October 4, 2017

そのような広範囲な単語の乱用は重要な議論の妨げになる

アメリカでのヘルスケアへの支出は年間約3.2兆ドル、GDPのおよそ5分の1に近い金額を示している。ひとつの産業として、ヘルスケアは1250万人、全労働人口の10%よりも若干少ない数のアメリカ人を雇用している。2015年には、アメリカ人の83.6パーセントがヘルスケアの専門家と接し、アメリカ人は8億8470万回にわたって病院を訪れた。

ヘルスケアはそういった単なる統計だけではない。それは、深刻な健康上の問題を抱えた人や単に健康に不安を持った人、高熱の子供を救急処置室に連れて行った人や年老いた家族のいる人、ヘルスケアの家計に与える影響を心配している人、または持病を持った知り合いがいる人にとって、非常に感情的なできごとでもある。ヘルスケアは私たちの家計に、私たちの生活の質に、私たちの運命に、そしてなにより私たちの命そのものに影響を与え得る。アメリカの議会レベルでは、ほとんど独占された政治的な議論が行われている。

そして、ヘルスケアというものは、存在しない。

もちろん、医者や看護婦、病院や保険会社、薬やメスや聴診器や法令などが存在しないと言っているわけではない。私は、宗教というものが存在しないのと同じ意味で、ヘルスケアというものは存在しないと言っている。正確には、その中には多くのものが存在し、私たちが通常それを表すために使う一般的な言葉は、その一般的な役割以外については無意味だからだ。

これは意味論にすぎない。単にものごとを正しく考えるためにそれを正確に概念化するということが重要なだけではない。これは、“ヘルスケア”という言葉が様々な異なった現実を一度に包含しようとするため、特に重要となる。法令を通じて、もしくは単なる議論においても、それは最初から運命づけられていた。

私たちはヘルスケアの専門家をあてにする。しかし、知識の範囲が膨大で広範囲にわたるため、“物理学の専門家”というものが存在しないように、ヘルスケアの専門家が存在することも不可能だ。物理学を学ぶ人たちはある特定の分野を専攻しなければいけない。そして、その物理学者がいかに博識であったとしても、自分の専門以外の分野に関しては、高校卒業レベルを若干上回る程度の知識しか持っていないかもしれない。別にそれはおかしなことではない。私たちは単にその事実を知っておく必要があるだけだ。

私たちは、あたかもそのようなものが存在するかのごとく“ヘルスケア制度”について話をする。しかし、とても広い意味合い以外においては、そんなものは存在しない。

また、これはもっとも具体的なやり方において意味を持つ。たとえば、オバマケアとそれを廃止・代替するさまざまな試みに関する議論は、ヘルスケアの財源(すでに信じられないほど複雑に細分化したヘルスケア)に集中していた。それはほとんど例外なく、まるで支払われるべき“ヘルスケア”が一枚岩かのように。しかし、これが、予防的ヘルスケア、定期的なヘルスケア、特殊なケア(婦人科、小児科、歯科、眼科、等々)、精神的ケア、緊急ケア、体を衰弱させる慢性疾患に対するケア、高額医療ケア、そして終末ケアなどをすべて含んでいることを考えてみてほしい。

そのさまざまな“ヘルスケア”の部分において、提供されるサービスも違い、使われるもの(薬、器具など)も違い、そして費用(相対的な金額、そしてどのように支払われるか)も違う、つまり費用負担のオプションも違い、そして私たちの倫理的な直観も違うということも考えてみてもらいたい。それらそれぞれについて、どう改善するか、どう支払うかといったたくさんの悪い案と、そしてたくさんの良い案が存在する。しかし、それらすべてが“ヘルスケア”という冠のもとに集められ、“ヘルスケア改革”というお題目のもとでのみそれらを改善しようとする法を通すことについて議論することは、事実上不可能だ。

“ヘルスケア”は対面の診断など最もローテクなものから、人類がこれまでに生み出した最もハイテクな製品やサービスまでカバーする。医療行為、病院、医療技術、薬、そして科学調査などの活動は、それぞれまったく異なった経済的および物理的障害を持つ。

おそらく、私が意味論について語りすぎているとあなたは思うかもしれない。しかし結局のところ、それらの特殊な分野はそれぞれに特化した専門家、ロビー団体、そしてそれに付随する利益が存在する。それらにたまたま同じ便利なラベルが貼られているからといって、それら全部を同じ箱に入れればいいというわけではない。病院を経営する会社は製薬会社と同じようには統制されない。

誰もこんなことに気づいていないと言っているわけではない。私はただ、この同じラベルが物事を見誤り、重要な議論をとばし、国民が注意を払う限られた期間に多くのものを詰め込んでしまうことについて述べているだけだ。私たちの社会が、農業、工業、小売業をすべて“物の産業”と呼ぶと決めたと想像してみてほしい。そこには、物政策の専門家、物政策の学校(物についての修士や学士が通う)がある。議会は物政策コミッティーを開き、物省では延々と物の改革について議論している(「オバマ物の廃止・代替を!」)。そのような世界においても、多くの人たちは農業と自動車を作ることの違いについては理解していることだろう。しかしそのような世界は、あらゆる意味において今より間抜けなことになっているに違いない。

これを理解するもう一つの方法は、“ヘルスケア”についての一般的な説明について質問してみることだ。アメリカにおける“ヘルスケアの質”はどう? まあ、時と場合によるかな。費用面を別にしたとしても、世界でもっとも優れた病院がアメリカに存在するというのは事実だろう。ただし、アメリカで通院することは、リスクをはらんだ薬漬けとさまざまなテストのために、おそらく他のどの先進国と比べて危険だとも言えるだろう。だから、ある意味アメリカの“ヘルスケアの質”は素晴らしいし、そうでない場合もある。

あなたに“ヘルスケア”について話そうとする人は、なんの役にも立たない一般的すぎる用語を使っている。だから、ここから“ヘルスケア”についての一連の議論を開始するのが最適だろうというのが私の考えだ。

(翻訳 浅岡寧)

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